一期一枝

木にかこまれ、木と触れ合う暮らしの日記です。

夢日記・・・みたいな?

今朝、目が覚めたとき、二年近く前のとある合宿の空間の記憶にいた。

夢というか寝覚めの思索というか、どちらともいえない。

キゴコロとして始めたブログはまだ二日目だけれど、ブログチャレンジの項目を埋めるのにちょっと氣合が入っている。

 

私はそういう場はあまり得意ではなかったけれど、人が心地よく触れ合える感じで、いままでより力を入れずにそこにいられた。それでも、ひとりで樹の懐に入るのが心地よく、3本の樹の間の心地よい空間を見つけて、そこを好んでその合宿中は時々入り込んだり、わざわざそこを通ったりして過ごしていたのだけれど、ずいぶん前のこととなってしまい、こんな風に思い出すことが少なくていた。

今朝の夢のような?空間はというと、そこは台所で、足元、床板の感触や壁の板、古い木の椅子、机、ウッドデッキやデッキスペースの手すりなど、しまいには古いスペースのそこだけ新しいトイレの合板の?壁とかだった。

 

人は夢の中であちこちに旅すると、ネイティブの文化の中のドリーミングの文化の中で言われているけれど、もしかしたら、ゆめでそこに出かけていて、帰ってくるのが間に合わないで半端に目覚めちゃったか?だから夢、の感じでは記憶は危うくて…。

 

その木たちは、今朝、私に喜びを伝えていた。

樹は土や水とつながっている時には、口がなくても響きで雄弁に生きている喜びを響かせてくれて、風のそよぎや、光のきらめきなんかは樹の言葉に拡がりを与えて、喜ぶという字の大きな口がなくても、樹には小さな口がもう一つあるのに氣づかされる。

木が伝えたのは何への何の喜びか?

それは、そこに集っていた人たちが、同じ向きに心合わせ、力合わせていること。何かに反対するとか、何かイベントするとかではないのだけれど、大切なものを取り戻す、という向きの合宿で、取り戻そうとしている確かなような不確かなような、一見つかみどころのなさげなものが、実はすべてのいのちにとって当たり前なものだから、そんな人の輪を、建物や家財の木たちは喜んで、ひと回り大きな輪で私たちを包み込んでいて、さらに大きな輪は外の生きた樹たちがつくっていて・・・

 

今朝、思い出したのではなくて、きっとそこに出かけているか、その時の樹たちが来てくれていたか、キゴコロブログを始めたお祝いに来てくれたか(^^?

 

そして、その、すばらしかった合宿は

 

ダンスの原典

ダンスの原典

 

 この方によるものです。

一文物語集

一文物語集

 

 私は、この方の、「人ではないものになってしまった人を除いて」というフレーズに、ガーンと頭を殴られたような感覚を覚え、それが何かがじわじわ開いてくるのを、ちょっとずつ恐る恐る見ていくようなこの半年ぐらいの日々。

 

14日に仙台で

舞台公演『飯田茂実の世界』6月14日(火)

をされるようです。新境地のようで地続きでないので出ていくにはちょっと遠く、きっと素晴らしい公園になることと思います。

 

母親のぬくもりを今一つ感じづらく育って、母は今もそばに住んでいるのだけれど、こちらにも書いた通り、私がしてほしいこととそうでないことをひっくり返してくれるのが得意だった人で、それは今もだけれど、この頃は話せばわかるし、いい年して甘えさせてもらってもいる。けれど、幼くて、よりどころが必要だったとき、庭仕事や盆栽などに熱心で、かつ、孫の私におおらかに暖かく接してくれたおじいちゃんがわたしのお母さんのようなもので、だから、樹は私の兄弟姉妹。

学校がつまらなくて、早く帰りたいなと・・・歩いて15分くらいの家の、おじいちゃんが植えた大きなモミの木が学校の窓から見えるのをよく眺めていた、窓越しの景色が思い出される。ぼーっと窓の外を眺めてるんでなしに、目的物があるってのはなかなかないことで、わたし恵まれている。

こんな私が樹や木に触れて安らいでいたら、何かを成そうとして力を入れてるより害がなくて、自分のためにも人のためにもなるのかなと思う。